20歳の時に大学を辞めて、東京で一人暮らしを始めた私は、とにかく寝なかった。
呆れるほど寝なかった。
時間がもったいなかったのだ。
一日4時間くらいの睡眠で、劇団のレッスンと、観劇と、バイトと、飲酒に明け暮れていた。
たまに休みに実家に帰ると、必ず病気して寝込んだりしていた。
若いとはいえ、オーバーワークだったのだ。
母は一万円を差し出し、「これで一日バイトを休みなさい」といってくれた。
でも、私は「はい」と言ってバイトは休まなかった。
時間もお金もいくらでも必要だったのだ。
したい事や、しなければいけないと思っていた事が、山ほどあったからだ。
そして、とにかく仲間はみんな貧乏だった。
呆れるほど貧乏だった。
お金があっても、みんな芝居につぎ込んでしまうから貧乏だったのだ。
キャベツばっかり食べてる人もいたし、まかないつきのバイト先から貰ってきた食料を
分け合って食べることもあった。
私は、ホカ弁のノリ弁を一日二回に分けて食べる日が多かった。
喫茶店でお茶を飲んでる人を、羨ましく思って眺めたこともあった。
実家にいれば、しなくてすむ苦労だったからだ。
それでも、帰りたいとは思わなかった。
私はかろうじて、6畳一間だったけど、同じ劇団のH君は3畳窓なしに住んでいた。
だから、H君のところに友人が来ると、「太田悪いけどちょっといいか?」と言って、
私の部屋で、みんなでお茶を飲んだりしていた。
窓がない所に複数の人が長くいると、息がつまるらしい。
私のうちなら呼吸くらいはできる。
私も、実家にいるときはケーキしか焼いた事がなかったので、おもてなしも出来ず、
自炊のご馳走のスパゲティーに石井のハンバーグを乗せたものを振舞ったりした。
一つの鍋で、パスタをゆでながら、ハンバーグも温められるという手抜きなもので、
料理とは呼べないのだが・・・。
とにかく、芝居に明け暮れ、バイト三昧だったのだ。
平日は10時から5時まで劇団でレッスンや自主トレ、
それから芝居を観にいかない日は、お運びのバイトと、深夜のレストランで、
朝の5時までウェイトレスをしていた。
劇団は、演劇集団「円」で、その頃の「円」は活気があった。
渡辺謙さんがまだ研究生で、コントの「怪物ランド」の平光さんが若手劇団員。
ブレイク前の橋爪功さんが講師として毎週教えてくださったりした。
研究生もとにかくレベルが高かった。
「文学座や青年座で、劇団員に残れなかったので、円に入った」という様な人ばかりだった。
私はお芝居の経験もないままに入ったので、出来ない事だらけだった・・・。
それでも「人が遊んでいる間に追いつこう」と、とにかく暗記と練習をした。
授業の前には、先週の分の予習をし、授業が終わってからは、
できなかった事の復習をした。
男の人にも誘われたけど、相手にしなかった。
時間がもったいなかったからだ。
今思うと、そっちの方がもったいなかったのだが・・・。
「二十歳の頃は、こんな格好してたんだじょ・・・。
顔は仕方がないので、スタイルよくしようと、
お腹にサランラップ巻いて寝たりしたんだじょ~」
あの時なら高く売れたのにね・・・。
「今は、底値だじょ~お買い得だじょ~」
粗大ゴミもお金払わないと持ってってくれないんだよ。
「か、辛口だじょ~」