いや~びっくりした。
ふ、古い・・・。
30年ぶりに観たけれど、時が止まってるのかと思った・・・。
俳優座の「桜の園」。
演技も古いし、劇場も古い・・・。
劇場はしょうがないか・・・。
まぁ、客席は満杯だし、追加公演もある事だから、
この舞台を必要としている人がいて、上手に売る人がいるのだろう。
そして私は、これらをコントに生かすことができるし、万々歳。
絶対、6月公演に「新しくない新劇」のパロディをいれる。
書く気満々なのだ。
怒りは創作の原動力に。
調べたら俳優座を退団した栗原小巻さんが1月9日に同じ桜の園をやっていたのだな。
ボクシングで知り合ったこだま愛さんも出ていたし、こっちを観たかった・・・。
原動力はありがたいけど、お話の世界にちゃんと連れてって欲しいじょ。
チェーホフの何たるかを語るには不勉強だけど、せめて「農奴からのし上がっていく男の野心と卑下されていた少年期からの純愛」や「銀のスプーンをくわえて産まれてきた貴族たちの浮世離れしたスケッチと没落してなお能天気であること」などくらいは読み込んで表現して欲しかった。
まぁ、読み込みはしてらっしゃるのだろうけれど・・・。
今年はチェーホフ作品が多い年だそうだ。
あんまり縁のない戯曲だけど、何回かは観ることになるのだろうな・・・。
戯曲自体はその時代の肝をつかんだ作品のはずだから、今の時代に「古い」のではなく、
「良いものが残って古典になった」という「古(クラシック)」だと思う。
永さんもそうおっしゃっていた。
納戸の奥に放っておいて古びたものではなく、職人の技モノが時を経てなお、お手本・見本として古典の位置にはいったものなのだ。
この日観たのはただ古かったのだな。
「没落貴族と元農奴」が同じテーブルについているという事だけで、本来はドキドキな背景ではないか。
落語を観ていてもそうだけど、磨いて磨いて歳をとって味が出る人と、ただ歳をとった人では、舞台が違う。
ただ、歳をとった・・・。
ううう・・・。
歳を取っただけでは能がない。
読み込みが深くなったりしなければ、肉体は衰えていくのだから、時を止めるどころか後退ではないか。
肉体は衰え・・・・。
ううう・・・。
い、いや・・・。
舞台の感想を述べるときに自分の事を顧みていては何も口にできない。
しばらくは観劇日記なので自分を観察するのはお休みだす。